夏のおとずれ〜にほひ編〜

夏のおとずれ〜にほひ編〜

2022年7月6日

ナゴヤの夏は暑い。空気がもったりとして重たい。
ねっとりまとわりつくような空気は、風が吹いても熱い塊がモゴモゴと体の周りを撫で回すだけ。明け方でさえ、糸のようなか弱い風しか届かず寝苦しい夜でぐったりとした体に朝を告げる。そして容赦なく照りつける朝陽に叩き起こされる日々、そんな厳しいナゴヤの夏。

年ごとにきびしさを増していくように感じるのは重ねていく年齢だけではなさそうだ 地球は何もかも焼き尽くすつもりなんじゃああないだろうか?と、、人間として、、種の存続の危険を感じる。

そんな酷暑のナゴヤの夏を迎えるにあたり私の必須夏のアイテム!がいくつかある。「京番茶」もその一つ。

昔から夏の我が家の定番だ。いり番茶 大葉茶 いぶり番茶と呼んでいる。父の実家は京都で、祖母の家に行くといつも台所で大きなやかんにたっぷりと作られていたお茶だ。独特の燻した香があるために、残念ながら娘たちは あまり好んで飲まない。

父の実家はもう、親族は誰もいなくなってしまったために京都に行く機会がめっきりとなくなってしまった。ここ数年 京番茶のこともすっかり忘れていた。

ある日 読んでいた小説の中で主人公が「京番茶」をポットに入れているというシーンを読んで思わず、京都に買いに走ったのが数年前

それから茶葉がなくなると「京都にお茶を買いに行かなければ!」と無理やりにでも京都にいく理由を作るのが私の習慣の一つとなった。

名古屋から 京都は 車で 1時間半~2時間ほど、日帰りできる距離 娘たちが巣立った今、日帰りで京都に買い物なんていうこともふらりとできる。

そんなことで今年も夏が本格的に始まる前にどうしても手に入れておきたくて車を走らせた。京都の夏もご存じのようにナゴヤに負けじと厳しい。

こどものころから京都の夏の記憶は白と黒。強い日差しは何もかもを反射して外の世界は白一色になり、そして、建物の中に入ると正反対に真っ暗なのだ。古めかしい日本家屋は建物の中は窓がほとんどない。こどものころから京都の夏は白と黒なのだ。

寺町通二条のその店は祖母に連れられて来た時と同じように、店内いっぱいのお茶の匂いに満たされている。今では自動ドアになった入り口をくぐると、無意識に目を閉じて深呼吸をしてしまう。古めかしい茶壺の壁、店内できびきびと動く店員さんたちの白い割烹姿。見上げていた茶壺はもっと大きく見えていたなあと記憶を手繰り寄せながら、今は亡き祖母と繋いだ手の柔らかさを思い出す。大人になった今でも記憶を取り戻せる場所が、あの時のままの佇まいであってくれることの嬉しさ。

いり番茶を三つと 水出し玉露 友人への手土産の煎茶を頼んでしばらくカウンター前で待っていると、次から次へとお客さまが注文をしていく。白髪、白髭の白人男性がラフなスタイルで 「濃い味のお抹茶ください」と流暢な日本語で、注文をしていく。

その隣では 小柄で少し前屈みな年配の女性が「あのね、お薄で使う抹茶をね、一つ、裏の宗匠お好みのをいただけます?」と、懐かしい京言葉で尋ねていた。「坐忘斎宗匠お好みの 関の白 こちらでよかったですか?」若い店員さんは品書きを広げる。女性はうなづきながら「それ一つ 包んで それと、、、」と、注文を続けていく。 亡き祖母の姿が重なり思わずグッと目を閉じる。

商品棚の向こうの喫茶室の前は観光客らしい若いカップルや女性のグループが入店の順番待ちをしている。観光客と地元の人、なぜ、見分けることができるのだろう、私は一体、観光客と地元の人どちらに見えているのかな、、とか、、(いや、、ナゴヤ弁でバレているし、、)そう思った瞬間に、、口元がにそにそと緩む。「なんや けいこニソニソわろうて」とこどもの頃の記憶のままの伯父の声が聞こえてきそうだった。時代を超えて たたずむ自分が、まるでタイムトラベラーにでもなったような感覚になり心臓の音が、私の中で大きくなる。

観光客とそこで生活している人が混在していることに少し ホッとしている自分に気づく。

実は、京都に来る前の日には 飛騨高山にいた私。昔そこにあった暮らしが見えなくなって 観光地化してしまったと聞く飛騨高山の「古い街並」

先日はそんな中でも ちゃんと受け取り繋げている「そこに住む人たち」のイベントに参加して、そこでも感じながら考えていた、過去から現代へとつながる時間の流れについて。飛騨高山と京都の二つの古い街に訪れることで私はこの数日「日本を作って来たモノと 作られた日本というモノ」の裏表を体感したようなそんな気がしている。層となって積み重なり 次世代へと繋げていく。時間が重なってそこに在るものを形作っていくのだろうか

見えているモノと見えないモノ

これからますますこの感覚を大事にしたいと思う。自分の感覚を鈍らせないようにしなければ。

家に帰り、早速新く買ったいり番茶の紙袋の封を切る。大きく息を吸い込むと体の隅々にしまわれていたこどもの頃の記憶が 見える。匂いが記憶する夏の風景は 褪せることなくまだ ここにある。

さて夏だ!今年 も アトリエでは たくさんの企画を用意しています。こどもたちの記憶に残る夏を! 

彼らが大人になった時に次へと繋げていけることができるような 「体験」を続けていきたい。そんなことを改めて思う夏の始まりの朝です。

高山の街並み